いつもお世話になり、誠にありがとうございます。
中川忠工務店の中川義仁です。
今日は、悲しいお知らせがございます。
弊社 中川忠工務店の代表取締役会長であり、私の父、中川忠夫が、2024年4月12日に永眠いたしました。
85歳でした。
昨年の6月頃から、食べても体重が減る、お腹を下しやすい、といった体調の変化がありました。
9月に受けた人間ドッグでは病気は見つからず、健康です、との診断。
しかし、その後体調の異変に不安を感じ、色々と検査を受けたところ、12月にすい臓がんという正式な診断がくだされました。
このとき、年齢的な問題や癌の進行具合もあり、積極的な治療はできないとの判断。
年末に更に体調を崩し、この時に余命は1~2か月との宣告がありました。
しばらく入院をしておりましたが、
「自宅に帰りたい」という本人の強い希望もあり、自宅療養がはじまりました。
当初は、末期がんとは思えないほど、良く食べ、外出することもあったりと過ごしていましたが、やはり、だんだんと衰弱。
余命宣告では見れないと思われた桜の季節を迎えた矢先、穏やかに息を引き取りました。
最期まで生きる希望を失わず、活動的な父らしく、天命を全う致しました。
私と父との思い出
戦前生まれの父は、中学卒業後から忙しく働いていたと聞いています。
特に中川忠工務店創業前は、建築会社で下積みの修行をし、夜は枚方市から大阪市内まで移動し、レストランで働いていたそうです。
中川忠工務店創業後も、
朝は早く、日が落ちるまでは現場で大工仕事をし、
日が暮れてからは次の現場の準備や墨付けを行っていました。
私が幼い頃は、父に遊んでもらった記憶はほとんどありません。
どこかに連れて行ってもらえるのは、お盆休みかお正月休みのみでした。
仕事柄、たくさんの職人が出入りするような家でしたから、小さい頃、私は父が誰なのかわからないくらいでした。
【昨年末には、毎年恒例のお餅つきを一緒にすることができました】
とにかく厳しい父
そんな多忙な父は、もちろん、仕事にもとても厳しい人でした。
私は、長男ということもあり、
幼い頃から「大工になる」「中川忠工務店の後継者となる」といった親の期待を一身に受けて育ちました。
父は、三兄弟の中でも特に私に厳しく接していたように思います。
恐らくそれは、中川忠工務店を将来背負っていく者して、立派に成長してほしいという父の願いだったのでしょう。
正直に言うと、幼さゆえにそれが窮屈に感じることもありました。
【何年か前の、年始の写真】
厳しい下積み時代
社会人になり、中川忠工務店に入ってからは、今では考えられないほどの厳しさでした。
給料は月に五万。
朝はどの職人よりも早く出社して下準備をし、夜は最後まで残り片づけをする。
もちろん、大工としてすぐには現場で役に立ちませんから、出来ることは掃除と、先輩大工の手元をしながら、目で見て技術を盗むこと。
今のように、逐一誰から親切に教えてくれる環境ではありません。
実際に、あまりの厳しさに、二度ほど逃げ出したことがあります・・・。
そんな過酷な下積み時代を経たからこそ、今では何にも変えられない技術力が身に着いたと自負しています。
それから、私も中川忠工務店の代表取締役に就任し、父は会長職に就き、だんだんと父は第一線を退いていきました。
しかし、父の私への厳しさは最後まで変わりませんでした。
あまりの厳しさに、窮屈に感じることもありましたが、振り返ると、「父がいたらこそ、今の私がある」そう、素直に思うことが出来ます。
父には、感謝しかありません。
【父が好きだったゴルフ。一緒にラウンドすることもできました。】
父の想いを引き継いでいきたい
父は、仕事としては第一線を退いてからも、地域の役員をしたり、地元菅原神社様の総代をしたりと、いつも活動的でした。
趣味の畑仕事に精を出し、お米や野菜を作ったり、
晩年は「畑いじりをしているときが一番楽しい」と申しておりました。
長々と父との思い出をつづりましたが、
父は、たくさんの方に支えられ、地元長尾で仕事をさせていただいたと感じています。
父は生前、
「地域の方を大切にし、地域の方のためになるような仕事をしなさい」
とよく申しておりました。
その教えを忘れず、これからも
「人のためになる仕事をする」
ことを忘れず、父の教えを胸に、これからも頑張っていきたいと思います。
長文となりましたが、
父の生前、お世話になりました方々には心より感謝申し上げます。
また、先日、父のお見送りにお参りしていただきました皆様、本当にありがとうございました。
まだまだ未熟な私ではございますが、どうぞ皆様のご指導ご鞭撻のほど、これからもよろしくお願いいたします。
株式会社中川忠工務店
代表取締役中川義仁
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